自分にとって「働く」ことの意味を考えてみた
- kyarikakuhamamatu
- 10月24日
- 読了時間: 2分
私にとって、労働は「最高を提供する事」です。しかし、一般的に見ると労働は「合格点の量産」に見えるときがあります。
父は特にその思想が強かったので「仕事と勉強は真逆だ」と言っていたのが懐かしいです。しかし、私はどうしても量産するのが苦手です。似たものを作ることに嫌悪感があって、ブログにしても一度書いたネタの同じようなことはあまり書きたくありません。
しかし、実際のブログを見ていくと思ったよりも似たような記事を出しているブログが多い。特に商業的なものが絡んだブログは手を変え品を変え製品のアピールにつなげるものですから、逆に最終的な終着点が必ず同じなことに安心を覚えてしまうほどです。
しかし、私が同じことをしようとすると「一度、他の記事で似たようなことを書いたけどいいのかな?」とか「整合性が取れているかな」とか気になりだして、好き勝手に書くことが出来ません。よくも悪くも「変なプロ意識」があって、最高でないものを出すことにためらいがあるんです。
世の中には合格点レベルの量産品が多くある中で、自分の流儀を貫いて価値を高めようとすることは悪い事じゃないとは思っています。それこそ、自分のセンスを信じて突き抜けた人間が後世で評価されているのは言うまでもありません。ただ、その生き方はとても難しいんですよね。なにせ、作成数が少ないから単価を高めても量産にかなわないことが多いからです。
これは一種の「生き方」の問題だと思います。働くことに対して安定性を求めるなら合格点を量産すればいいでしょう。しかし、評価を求めるならば認められるまで最高を更新し続けるしかないんです。
働くこと一つに生き方が絡んでくるのが面白いですね。
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