私が丸くなる理由
- kyarikakuhamamatu
- 7月20日
- 読了時間: 13分
雨上がりの庭には、世界の秘密が落ちている。濡れた土の匂い。葉っぱの裏についた小さなしずく。誰かが忘れていったビー玉みたいな雨粒。それから、石の下で静かに動き出す、ちいさな命たち。その庭のすみ、古い植木鉢のかげに、一匹のダンゴムシが住んでいた。私の名前は、まる。まるは、自分の名前が少しだけ苦手だった。なぜなら、まるは仲間たちの中でも、特にすぐ丸くなるダンゴムシだったからだ。少し大きな音がしただけで、ころん。鳥の影が横切っただけで、ころん。子どもの足音が近づいただけで、ころん。風で枯れ葉が動いただけで、ころん。仲間たちは笑った。「まるはまた丸くなった」「そんなに怖がってばかりで、どうやって生きていくんだ」「丸くなるだけなら、石ころと同じじゃないか」まるは何も言わなかった。言い返したかったわけではない。ただ、言葉を持っていなかった。ダンゴムシの世界では、強いものはすばやく歩き、賢いものは湿った場所を見つけ、勇敢なものは大きな葉っぱの下まで冒険に行く。でも、まるは違った。まるはすぐに丸くなった。怖くなると、体が勝手に縮こまった。外の世界が大きすぎると感じると、足をしまい、触角をしまい、自分を小さな球にした。まるは思っていた。ぼくは弱い。ぼくは何の役にも立たない。ぼくは、ただ丸くなるだけのダンゴムシだ。そんなまるが住んでいた庭には、一人のおばあさんがいた。おばあさんは、毎朝ゆっくりと庭に出てきた。膝が悪いのか、歩くたびに少し顔をしかめる。それでも、おばあさんは花に水をやり、枯れ葉を集め、小さな声で庭に話しかけた。「今日も咲いてくれてありがとうね」「雨が降ってよかったね」「あなたは少し元気がないね。大丈夫、大丈夫」まるは、そんなおばあさんの声が好きだった。おばあさんの声は、足音ほど怖くなかった。風よりもやさしくて、雨よりも静かだった。ある日、おばあさんは庭のすみで、小さな鉢植えを置いた。それは、まだ小さな苗だった。細い茎に、頼りない葉っぱが三枚だけ。風が吹けば折れてしまいそうな、小さな小さな花の赤ちゃん。おばあさんは、その苗に向かって言った。「この子はね、ひまわりなんだよ」まるは、石の下からそっと見ていた。ひまわり。その言葉だけで、夏の光みたいなものが庭に落ちた気がした。おばあさんは、毎日その苗に水をやった。「大きくなるんだよ」「急がなくていいからね」「ゆっくりでいいんだよ」まるはその言葉を聞くたびに、不思議な気持ちになった。ゆっくりでいい。急がなくていい。

そんなことを、まるに言ってくれた者はいなかった。仲間たちはいつも、早く歩け、怖がるな、丸くなるなと言った。でもおばあさんは、ひまわりに向かって、ゆっくりでいいと言っていた。まるは、少しだけひまわりがうらやましかった。ある朝、庭に小さな男の子がやってきた。おばあさんの孫だった。男の子は、ランドセルを背負ったまま庭に立っていた。けれど、学校に行く時間のはずなのに、なかなか門の外へ出ようとしなかった。おばあさんが言った。「今日も行きたくないかい」男の子は、うなずかなかった。首を振りもしなかった。ただ、靴の先で土をこすっていた。「大丈夫。行ける日もあるし、行けない日もあるよ」おばあさんはそう言って、男の子のそばにしゃがんだ。男の子は小さな声で言った。「ぼく、学校に行くと、おなかが痛くなる」「そうかい」「教室に入ると、みんなが見てる気がする」「そうかい」「何か言われるのが怖い」「そうかい」おばあさんは、急かさなかった。励ましすぎることもしなかった。ただ、男の子の言葉をひとつずつ受け取っていた。まるは石の下で丸くなっていた。なぜなら、男の子の声が、自分の心に少し似ていたからだ。怖い。見られている気がする。動けない。外の世界が大きすぎる。まるは思った。この子も、丸くなりたいのかもしれない。その日、男の子は学校に行かなかった。ランドセルを玄関に置き、庭のすみに座りこんだ。おばあさんは何も言わず、ひまわりに水をやった。男の子は、ぼんやりと庭を見ていた。そのとき、男の子の目の前を、まるが歩いてしまった。しまった、と思った。男の子の影が落ちた瞬間、まるの体は反射的に丸くなった。ころん。完全な球になったまるを見て、男の子は少しだけ目を見開いた。そして、言った。「……ぼくみたい」おばあさんが振り返った。「どうしたんだい?」男の子は、丸まったまるを指さした。「この虫、すぐ丸くなった」「ダンゴムシだね」「弱いから?」おばあさんは少し考えてから言った。「弱いから、というより、自分を守る方法を知っているんだよ」男の子は、まるをじっと見つめた。

「守る方法?」「そう。怖いとき、無理に強そうにしなくてもいいんだよ。この子は丸くなることで、自分を守っている」男の子は黙った。まるも黙った。ダンゴムシは、もともとしゃべれない。けれどそのとき、まるは初めて、自分の体がただの弱さではなかったのかもしれないと思った。丸くなることは、逃げることだと思っていた。情けないことだと思っていた。役に立たないことだと思っていた。でも、おばあさんは言った。自分を守る方法。その日から、男の子は毎朝、庭に来るようになった。学校に行ける日もあった。行けない日もあった。行けない日は、庭のすみに座って、ダンゴムシを探した。まるは、男の子が近づくと、やっぱり丸くなった。ころん。男の子はそのたびに、小さく笑った。「今日も丸いね」まるは何も言わない。「ぼくも、今日は丸くなりたい日」男の子は、まるのそばで膝を抱えた。はじめのうちは、男の子はただ座っているだけだった。でも、少しずつ、庭のことをするようになった。枯れ葉を集める。ひまわりに水をやる。おばあさんの代わりに植木鉢を動かす。ひまわりは、ゆっくり伸びていった。最初は頼りなかった茎が、少し太くなった。三枚だった葉っぱが、五枚になった。小さなつぼみができた。男の子は、毎日それを見た。「ひまわりって、すぐ咲かないんだね」「そうだね」「でも、毎日ちょっとずつ伸びてる」「そうだね」「ぼくも、そうなれるかな」

おばあさんは、水やりの手を止めて、男の子を見た。「もう、なっているよ」男の子は不思議そうな顔をした。「ぼく、まだ学校に毎日行けないよ」「でも、庭には毎日来ている」「それだけ?」「それだけじゃないよ。昨日より少し長く外にいる。先週より少し話している。前より少し笑っている」男の子は、ひまわりの葉に触れた。「少しって、意味あるの?」おばあさんは言った。「少しがなかったら、大きくはなれないよ」まるは、植木鉢のかげで聞いていた。少しがなかったら、大きくはなれない。その言葉は、まるの小さな体の中に、雨粒みたいに染み込んだ。夏が近づくにつれ、庭は明るくなった。ひまわりは、男の子の背丈を越えた。男の子は、学校に行く日が少しずつ増えた。でも、毎日うまくいったわけではない。ある日、男の子は泣きながら帰ってきた。ランドセルを背負ったまま庭に飛び込み、ひまわりの下にしゃがみこんだ。「もう行きたくない」おばあさんは、ゆっくり近づいた。「何かあったかい」男の子は首を振った。「何もない。でも、だめだった。教室に入れなかった。先生が待ってくれてたのに。お母さんも頑張れって言ったのに。ぼく、まただめだった」男の子の涙が土に落ちた。その近くで、まるは丸くなっていた。男の子はまるを見つけると、泣きながら笑った。「おまえはいいな。丸くなっても、誰も怒らない」まるは、胸の奥がちくりとした気がした。ダンゴムシに胸があるのかは分からない。でも、その日、まるはたしかに痛かった。男の子は言った。「ぼくも、丸くなっただけなのに」おばあさんは、男の子の隣に座った。「丸くなったあと、また開けばいいんだよ」「開けなかったら?」「開ける日まで、丸くなっていればいい」「それでいいの?」「ずっと丸いままのダンゴムシはいないよ。安全だと思ったら、ちゃんとまた歩き出す」男の子は、まるを見た。まるは、ゆっくりと体を開いた。足を出し、触角を出し、少しだけ前へ進んだ。男の子は息をのんだ。まるは怖かった。男の子の涙も、声も、近すぎる顔も、全部怖かった。でも、まるは歩いた。一歩。もう一歩。ほんの数センチだった。でも、男の子はそれを見て、泣きながら言った。「すごい」まるは思った。ぼくは、すごいのだろうか。ただ、丸くなって、少し待って、また歩いただけなのに。けれど男の子にとっては、その小さな一歩が、何よりも大きく見えた。その日から、男の子はまるのことを「先生」と呼ぶようになった。「ダンゴムシ先生」おばあさんは笑った。「立派な先生だね」まるは、少し困った。先生と呼ばれても、まるは何も教えられない。黒板もない。チョークもない。難しい言葉も知らない。ただ、怖くなったら丸くなる。大丈夫そうなら開く。そしてまた、ゆっくり歩く。それだけだった。でも、男の子はそれを毎日見ていた。怖い日は、無理に強くならなくていい。丸くなる日があっていい。でも、丸くなった自分を嫌いにならなくていい。また開ける日は来る。まるは、言葉ではなく、体でそれを教えていた。やがて、ひまわりが咲いた。大きな大きな黄色い花だった。庭のすみに咲いたその花は、まるにとっては太陽そのものだった。男の子は、花を見上げて言った。「咲いた」おばあさんは、うなずいた。「咲いたね」「最初はあんなに小さかったのに」「そうだね」「毎日少しずつだったのに」「そうだね」男の子は、まるを探した。まるは、ひまわりの根元にいた。落ちた葉っぱのかけらを、ゆっくり食べていた。男の子はしゃがんで、まるに言った。「先生、ぼく、明日学校に行ってみる」まるは食べるのをやめた。「でも、怖くなったら保健室でもいいことにする」まるは動かなかった。「教室に入れなかったら、廊下でもいいことにする」まるは、触角を少し動かした。「それでもだめなら、帰ってきてもいいことにする」男の子は笑った。「丸くなってもいいことにする」次の日、男の子は学校へ行った。朝、庭に来て、ひまわりに水をやり、まるを見つけると、小さく手を振った。「行ってきます」まるは、丸くならなかった。男の子の足音が遠ざかっていく。門が開く音がする。閉まる音がする。庭には、おばあさんと、ひまわりと、まるが残った。おばあさんは、ひまわりを見上げながら言った。「あの子、行ったね」まるは、小さく歩いた。その日の夕方、男の子は帰ってきた。走ってではなかった。スキップでもなかった。顔いっぱいの笑顔でもなかった。でも、泣いてはいなかった。男の子は庭に入ると、まっすぐひまわりの下に来た。「先生」まるは、石のかげから出てきた。「今日は、教室に入れた」おばあさんが微笑んだ。「すごいね」男の子は首を振った。「ずっとじゃない。途中で怖くなって、保健室に行った」おばあさんは言った。「それでも行けたんだね」男の子は、まるを見た。「うん。丸くなったけど、また少し開けた」まるはその言葉を聞いて、なぜか体が温かくなった。秋が来た。ひまわりは、少しずつ頭を垂れた。黄色かった花びらは色を失い、種をたくさん抱えるようになった。男の子は、学校に行ける日が増えた。それでも、行けない日もあった。でも、行けない日を「全部だめな日」とは呼ばなくなった。「今日は丸い日」そう言って、庭に来た。おばあさんは笑った。「そうかい。じゃあ、丸くなって休む日だね」男の子は、まるを探して言った。「先生も、今日は丸い?」まるは、その日もやっぱり少しの音で丸くなった。ころん。男の子は笑った。「先生は相変わらずだなあ」でも、その声には、前のような寂しさはなかった。ある朝、おばあさんが庭に出てこなかった。男の子は不思議に思って、家の中に戻った。その日から、庭は少し静かになった。おばあさんは、体を悪くして入院した。男の子はしばらく、庭に来ても何も話さなかった。ひまわりの種を見つめ、まるを見つめ、ただ座っていた。まるは、いつものように丸くなったり、開いたりした。でも男の子は笑わなかった。数日後、男の子は庭に小さな封筒を持ってきた。おばあさんからの手紙だった。男の子は、ひまわりの下に座って読み始めた。「庭のひまわりの種を、春になったらまいてください。きっとまた咲きます。咲くまでには時間がかかります。でも、大丈夫。小さな変化は、見えないだけで、ちゃんと起きています。それから、庭の先生にもよろしくね。あの小さな丸い先生は、いいことを教えてくれました。怖いときは丸くなっていい。でも、丸くなった自分を責めなくていい。
また開ける日が来たら、少し歩けばいい。あなたも、私も、きっと同じです。急がなくていい。少しずつでいい。春になったら、また会いましょう」

男の子は泣いた。
声を出さずに泣いた。
手紙の上に、涙が落ちた。
まるは、男の子の足元で丸くなっていた。
雨が降りそうな匂いがした。
土が湿り、空が暗くなった。
男の子は、まるをそっと見つめて言った。
「先生」
まるは、少しだけ体を開いた。
「ぼく、また丸くなってる」
まるは、ゆっくり足を出した。
「でも、春になったら、また開く」
まるは、一歩進んだ。
男の子は涙をぬぐった。
その冬、庭は静かだった。
ひまわりは枯れ、葉は落ち、土は冷たくなった。
まるは石の下で、寒さをしのいだ。
男の子は、ときどき庭に来た。
前より背が伸びていた。
声も少し変わった。
学校に行く日も増えた。
でも、まだ怖い日はあった。
怖い日は、庭に来て言った。
「今日は丸い日」
そして、少し休んでから、また歩き出した。
春が来た。
男の子は、おばあさんの手紙に書かれていた通り、ひまわりの種をまいた。
土を掘り、種を置き、やさしくかぶせた。
「大きくなれよ」
男の子は言った。
そして少し照れたように付け加えた。
「急がなくていいから」
まるは、その近くを歩いていた。
もう年を取っていた。
ダンゴムシの一生は長くない。
まるの足は、前より少し遅くなっていた。
触角の動きも鈍くなっていた。
でも、まるは幸せだった。
自分は、何か大きなことをしたわけではない。
空を飛んだわけでもない。
強い敵を倒したわけでもない。
誰かを言葉で励ましたわけでもない。
ただ、怖いときに丸くなった。
大丈夫そうなときに開いた。
そして、少し歩いた。
それだけだった。
でも、それを見ていた男の子がいた。
それだけで、まるの小さな生は、少しだけ意味を持ったような気がした。
春の終わり、ひまわりの芽が出た。
男の子は大喜びした。
「出た!先生、出たよ!」
まるは、その声を聞いた。
でも、もう前のように早く歩けなかった。
男の子は、まるを見つけて、そっと手を近づけた。
まるは、いつものように丸くなった。
ころん。
男の子は笑った。
「最後まで先生らしいね」
その声は、泣きそうだった。
まるは、丸いまま思った。
丸くなることは、弱さじゃなかった。
自分を守ることだった。
そして、いつかまた開くための時間だった。
男の子は、丸くなったまるを土の上にそっと置いた。
「ありがとう」
風が吹いた。
ひまわりの小さな芽が揺れた。
まるは、ゆっくりと体を開こうとした。
でも、少しだけしか開けなかった。
それでもよかった。
少しでいい。
少しがなかったら、大きくはなれない。
男の子は、まるを見つめていた。
その日、まるは土に還った。
けれど、まるが教えたことは、庭に残った。
怖いときは丸くなっていい。
動けない日があっていい。
誰にも見えないところで、自分を守っていい。
でも、自分を嫌いにならなくていい。
安全だと思えたら、少しだけ開けばいい。
一歩だけ歩けばいい。
その一歩が、誰かにとっては、希望に見えることがある。

夏になった。庭には、今年もひまわりが咲いた。大きな黄色い花の下で、男の子はランドセルを背負って立っていた。もう毎日が平気になったわけではない。怖い日もある。胸が苦しくなる日もある。誰にも会いたくない日もある。でも、男の子は知っていた。丸くなっても終わりじゃない。丸くなるのは、また開くためだ。男の子は、庭の土に向かって小さく言った。「行ってきます、先生」そのとき、ひまわりの根元で、小さなダンゴムシの赤ちゃんが歩いていた。男の子はしゃがんだ。その赤ちゃんは、男の子の影に驚いて、すぐに丸くなった。ころん。男の子は、やさしく笑った。「大丈夫」そして、かつておばあさんが言ってくれた声で、そっと言った。「急がなくていいよ。開ける日まで、丸くなっていていいよ」雨上がりの庭には、世界の秘密が落ちている。濡れた土の匂い。葉っぱの裏についた小さなしずく。誰かが忘れていったビー玉みたいな雨粒。それから、誰にも気づかれないほど小さな命が、誰かの心をそっと支えていること。それは、強くなくてもいいという秘密。怖がりでも、生きていていいという秘密。丸くなったままでも、ちゃんと意味があるという秘密。そしていつか、ほんの少し開いたその瞬間に、世界はまた、歩き出せる場所になる。

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